Vol 265 2025.3



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・連載コラム:香山リカ「精神科医はへき地医療で“使いもの”になるか?」
 第30回 花鳥風月の中で生きて死ぬことと医療

新刊書籍
クライエントのアウトカムを改善する効果的な臨床スキル

治療効果をもたらすことのできる優れた心理療法家をめざす専門家向けのガイドブック。「援助関係」「治療スキル」「学習、研修、臨床科学」の三部構成で、特にさまざまな治療スキルについて重点的に解説。

ウィリアム・R・ミラー、テレサ・B・モイヤーズ 著
原井宏明、川島寛子 訳


脳と心の摩訶不思議
脳科学で説明できたこと、できなかったこと


統合失調症研究の第一人者である著者の約30年の臨床と研究を振り返り、心と脳が織りなす難問に向き合った臨床・研究を詳しく述べた一冊。

糸川昌成 著


電子書籍
脳と心の摩訶不思議 《電子書籍版》
脳科学で説明できたこと、できなかったこと

統合失調症研究の第一人者である著者の約30年の臨床と研究を振り返り、心と脳が織りなす難問に向き合った臨床・研究を詳しく述べた一冊。

糸川昌成 著


雑誌の最新号
《特集》 認知症診療をアップデートする

新薬の登場や、認知症基本法の制定など、認知症を取り巻く状況は大きく変化している。
本特集では、臨床倫理、経済的権利擁護、ピアサポート、画像診断やバイオマーカー検査の理解と告知など、関連テーマを網羅。


月刊 臨床精神薬理 第28巻4号 』
《特集》少し迷う疾患・病態に対する薬物療法

ガイドラインと完全には一致しない疾患や病態に対する薬物療法について整理した特集!!
現在では様々な精神疾患に対する診療ガイドラインが公表されており、ある一定の基準や道筋が明らかとなった一方、日々の臨床現場ではガイドラインと完全には一致しないような迷う病態、判断を要する場面がしばしば訪れる。本特集は、そのようなしばしば出くわすがガイドラインに該当しない疾患や病態に対する薬物療法について第一線の専門家が解説した。


第31回
花鳥風月の中で生きて死ぬことと医療
  穂別に来てへき地の総合診療医になってから、東京で精神科医だった頃に比べて、「死」に触れる機会が格段に増えた。昨日もひとり、病棟に入院していた90代を看取った。
 高齢化率が高く、80代、90代がいっぱいの穂別では、誰もが「死」の話をタブー視していないようだ。「なかなかお迎えが来ない。待ってるんだけどね」と言う人もいれば、「あと2年で百歳だから、先生、それまでは死にたくないんだよ」と言う人もいる。その口調は総じて明るい。
 総合診療医になって日が浅い私は、定期受診の患者さんの採血や胸部レントゲン検査をして異常が見つかれば、「内科診療フローチャート」といった教科書を見ながらさらなる精査を進める。この診療所ではできない検査などに関しては、苫小牧市の病院に行っていただくことになる。
 「このあいだ血液検査したでしょう。その結果、もしかしたら血液のがんみたいな病気があるかもしれないんですよ。苫小牧の市立病院でくわしく検査してもらいましょう。こちらで紹介状書いて予約を取りますよ」
 「先生、お願いだから苫小牧に下げないで。もうここでできることでいいよ。いまはどこも具合悪くないんだから」
 穂別の人たちは、ここから60数キロ南西に進んだ太平洋岸にある苫小牧市に行くことを「下がる」と言うのだ。「上京」「上洛」などより大きな都に向かうことは「上がる」と表現されることが多いが、人口2千2百人の穂別から人口17万人近い苫小牧市に行くことは「下がる」なのだ。最初、聞いたときは違和感を覚えたが、今では私も自然に「じゃ、苫小牧に下がった方がいいわね」などと口にする。地位の上下の意識からではなく、単に地図上の南北から来ている言い方だとは思うが、正直に言うと「電化製品を買わなきゃ。仕方ない、苫小牧に下がろうかな」と話すときになんともいえない穂別人としてのプライドを感じることもある。
 ただ、重篤な疾患の可能性がある患者さんに「苫小牧には下げないで」と言われると、医者としてはすぐに「わかりましたよ」とは言えない。
 「でも、大きな病院で検査して、必要なら治療もしてもらわないと、命にかかわる病気の可能性が高いんですよ」
 「先生、いいのよ。もう90だし、ずっと暮らした穂別で自然に死にたいの」
 そんなことを実にあっさりと笑顔で語る人が多い。とくにふだんから「人生の最期をどう迎えるか」と深刻に考えてた風には見えないが、いざとなったらごくあたりまえのことのようにこんな言葉が口から出てくる。「自然に死にたい」、そう言われると説得する気持ちもどこかに消えて、「わかりました。じゃ症状が出たときにはできることをさせていただきますね」とだけ言って深くうなずくしかなくなる。
 精神科医をやっていたときも、患者さんから「死にたい」という言葉を何度となく聴いた。ただ、それは「自然に死にたい」と穂別の高齢者が語るときの「死にたい」とはまったく異なるものであった。「友だちは幸せな家庭があったり仕事で成功していたり。何をやってもうまくいかないのでもう死にたい」「親も恋人もつらさをわかってくれない。死にたいです」などと語られるときの「死にたい」には、「自然」のにおいはまったくしない。それどころか、「自然に生きればまだ命は十分、残っているはずだけど、それに逆らってでも終わりにしたい」という「自然に抵抗しての死」の印象が強い。
 同じ「死にたい」なのに、この違いはなんなのだ。
 仏教学者の立川武蔵のインタビューを読んでいたら、「インド仏教で出家した僧たちは花鳥風月を愛でることをしないが、日本を含めた東アジアでは、仏教僧にとって自然は非常に近しいもの」といった興味深い内容が語られていた(「生者の世界を死者の世界が交差する場」、『談』132号、2025)。般若心経の有名な一節「色即是空」にしても、インド人にとっては「色彩あるものは空なるものだから執着してはならない」というのが基本の解釈だが、東アジア、とくに日本では「『色』は良いもので、移ろいゆくのだから美しく貴重なものだ、移ろいゆくものが真実だ」という解釈になるのだという。    
 自然に囲まれた穂別で土や川、野生動物を愛でたりときには対峙したりしながら長く生き、老いたり病んだりしたときには「自分もこの自然の移ろいの中で死んでいく」という事態を受け入れ、むしろそうしたいとごくあたりまえのこととして願う。それは、立川が日本を含めた東アジアの仏教について「自然が生きており、世界も生きています」と語る言葉と重なる気がする。
 都会の診察室で「死にたい」と訴える人たちはどうなのだろう。自然や世界からも、他の人びとや生きものからも切り離された自分だけの「生・住・滅」のサイクルの中で、「いつまで生きよう、もう死んだ方がいいのではないか」とひたすら内面を見つめて考え続けている。訪れつつある死を受け入れるのではなく、むしろ死を欲望する。「フロイトの言うタナトス、死の欲動とはこういうものだったのかしら。いやちょっと違うような」などと考え始めるときに限って、事務から「先生、救急隊から電話です。伐採作業中に上から大きな枝が落ちてきてあたったそうです」といった声がかかり、「そうか、私はもう精神科医じゃないんだ」と気づかされるのだ。
 日常的な診察の場では、「相変わらず」という言葉にも飽きてくるほどの相変わらずな綱わたりが続いている。最近は「背中が痛い」と言って受診してくる人に対して、痛みの具合やこれまでの経緯から「尿路結石ではないか」「急性膵炎に違いない」と見込んで検査を進め、いずれもそれではなかった、という経験をした。
 ある人の場合、「結石っぽいと思ったんですけど、尿検査や画像所見に異常はなくて。でも痛いって言ってます」と所長に泣きついたら、「じゃちょっと診てみましょうか」と診察をかわってくれた。所長は痛みの部位をまずしっかりと肉眼で見て、それから細かい部位に分けながら触診。痛みの部位はかなり限局的であることがわかった。私はといえば、てのひらでそのあたりをざっくりと触り、「痛いですか? そうですか」としてカルテに「右腰背部に圧痛あり」と記載しただけであったのだ。
 所長は笑顔で、「痛いのはこのあたり指1本で押せる範囲だけだし、これは内蔵じゃないですね、たぶん筋肉でしょう」と患者さんに伝えた。するとその人は、「あ、思い出した! このあいだ雪道で転んでこのあたりもぶつけたんです」と言うではないか。診察に同席した私は「え、さっき『ぶつけてないですか?』ときいたときは『ないです』と言ったじゃない!」と声が出そうになったが、おそらく最初から「これは結石に違いない」と決めてかかっていた私は、その尋ね方も性急で雑だったのだろう。
 ところで、総合病院での検査を断り、「自然に死にたい」と言っていた高齢者はその後、どうしているか。カルテを見たら、その話をしてから早くも2年近い月日が流れた。90代になったその人は今も元気で、そろそろ家庭菜園の準備をしているという。血液検査をするとそれなりに異常値は出るが、格段に進行している様子もない。
 こちらとしては「こんなに進行しないものなのか」とひそかに首をひねるほどなのだが、何より本人が「今回の結果はどうでした?」と気にしている様子がない。進行が速くてもほとんど進行しなくても、それもまた「自然に」ということなのだろう。
 かといって投げやりというわけではなく、あるときその人が時間外外来にやって来たことがあった。どうしたのかと思ったら、てのひらが赤くなったのだという。肉眼的にはほとんど変化はないのだが、「除草剤を別の容器に移し替えててちょっと触っちゃったんだよね」とひどく気にしているようだ。大きなことでは自然にまかせたいと思っていても、こういうちょっとしたことでは動揺するんだ、と少し驚きながら私は言った。
 「だいじょうぶ、除草剤でかぶれてはいないみたいですね。でも、てのひらも腕も乾燥してかゆそうだから、保湿剤でケアしましょうか」
 すると、返ってきたのは、「そんなのいらないよ」ではなくて「そうだな、そうしてみるか」という返事。日々の健康にはちゃんと気を配っていることがわかり、なんだか微笑ましい気持ちになったのだった。
 春になると草木の芽が出て、育ち、花が咲き、夏前にはアスパラやメロンの収穫が始まる。動物たちの動きも活発になる。でも、また秋が来て冬になれば、すべては氷と雪の下に閉ざされ、命を終える植物や動物も多い。人間だけがそのサイクルとは無縁ということはないのだ。
 移ろいゆき、色が変わりゆく穂別の自然の中で、私も年を重ねてゆく。ここでついに命の終わりを迎えることまでをも「自然だから」と受け入れられるかどうかはわからないが、まずその前に尿路結石と筋肉痛との見分けがつけられるようにならなくてはならない。そんなことを思いながら、穂別ですごす4年目の生活がスタートする。

香山リカ(かやま りか)
1960年生まれ。精神科医として臨床を行うかたわら、エッセイを執筆したり大学心理学部教員を務めたりしてきた。2022年4月からむかわ町国民健康保険穂別診療所副所長。医師名は中塚尚子。 『精神科治療学』37巻3号「〈特集〉なぜ精神科医を志し、その分野を自らの専門としたのか」に掲載の論文に、総合診療医としてへき地医療に転身するいきさつが書かれている。また、近著に 『精神科医はへき地医療で“使いもの”になるのか? ~私の転職奮闘記~』がある(星和書店刊)。


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