イーマナ配信
2023/05/01 (Mon) 09:00
キリストがわたしたちを得たのは、わたしたちがキリストを得るためである
――――――――――――――聖書の節(回復訳)――――――――――――
ピリピ3:12 わたしは、すでに獲得したとか、すでに完成されているとか言うの
ではありません。わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それ
はわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです。(13節)兄弟
たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません。ただ一つの事、
すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、
(14節)キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神の賞を得るため
に、目標に向かって追い求めています。
―――――――――――――――務めの言葉―――――――――――――――
12節から14節にかけてパウロは、7節から11節までに提示された事柄を自分自身
に当てはめています。12節で彼は言っています、「わたしは、すでに獲得したと
か、すでに完成されているとか言うのではありません。わたしは、それを捕らえ
ようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕
らえられているからです」。「完成されている」と訳されているギリシャ語は、
命において完成した、円熟したという意味です。ここでパウロが言っているのは、
自分がまだ成長しているということでした。なぜなら、彼は自分自身、まだ完成
されているとは考えていなかったからです。もしパウロが命においてあれほど成
長し、あれほど多くキリストを経験していたのに、それでも自分はまだ捕らえた
とは思っていない、まだ完成されていないと言わなければならなかったとしたら、
どれほどわたしたちは自分自身に対してそのような態度を持たなければならない
ことでしょうか!
12節でパウロは言います、「わたしは、それを捕らえようと追い求めているので
すが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです」。
「捕らえられている」と訳されたギリシャ語は、得る、つかむ、手に入れるなど
と訳すこともできます。捕まえると訳すこともできるでしょう。わかりやすいよ
うに、このメッセージでは「得る」という言葉を使うことにしましょう。パウロ
はそれを得ようと追い求めていましたが、それは彼が、キリスト・イエスによっ
て捕らえられていたからでした。パウロは回心した時に、キリストによって得ら
れました。キリストは、パウロがキリストを得ようとすることを意図してパウロ
を得たのでした。
パウロが語ったように自分の回心について語るクリスチャンは多くありません。
回心した時に、キリストはわたしを得た、それはわたしがキリストを得るためで
あった、とだれかが言うのを聞いたことがありますか? わたしたちは、キリス
トがわたしたちを得たのは、わたしたちがキリストを得るためであることを、認
識する必要があります。それから、わたしたちはパウロの表現を用いて、自分の
回心についての話し方を引き上げる必要があります。キリストがわたしたちを得
たのは、単に罪の赦し、贖い、救い、天のためではありません。繰り返しますが、
彼がわたしたちを得たのは、わたしたちが彼を得るというはっきりした目的のた
めです。
―――――――――――――――――――――――――――――――――――
新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、
ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ
ッセージ23から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。
このメールアドレスは送信専用のアドレスですので、eManna宛にコメントなどの
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コメント: mailto:remark@emanna-japan.com へメールをお送りください。
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ぜひご覧ください: http://www.jgbr.com
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登録/削除はこちらまで: https://g.bmb.jp/isle/p/f/tf.php?id=emanna2009
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ピリピ3:12 わたしは、すでに獲得したとか、すでに完成されているとか言うの
ではありません。わたしは、それを捕らえようと追い求めているのですが、それ
はわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです。(13節)兄弟
たちよ、わたしはまだ自分自身、捕らえたとは思っていません。ただ一つの事、
すなわち、後ろにあるものを忘れて、前にあるものに向かって体を伸ばしつつ、
(14節)キリスト・イエスの中でわたしを上に召してくださった神の賞を得るため
に、目標に向かって追い求めています。
―――――――――――――――務めの言葉―――――――――――――――
12節から14節にかけてパウロは、7節から11節までに提示された事柄を自分自身
に当てはめています。12節で彼は言っています、「わたしは、すでに獲得したと
か、すでに完成されているとか言うのではありません。わたしは、それを捕らえ
ようと追い求めているのですが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕
らえられているからです」。「完成されている」と訳されているギリシャ語は、
命において完成した、円熟したという意味です。ここでパウロが言っているのは、
自分がまだ成長しているということでした。なぜなら、彼は自分自身、まだ完成
されているとは考えていなかったからです。もしパウロが命においてあれほど成
長し、あれほど多くキリストを経験していたのに、それでも自分はまだ捕らえた
とは思っていない、まだ完成されていないと言わなければならなかったとしたら、
どれほどわたしたちは自分自身に対してそのような態度を持たなければならない
ことでしょうか!
12節でパウロは言います、「わたしは、それを捕らえようと追い求めているので
すが、それはわたしが、キリスト・イエスによって捕らえられているからです」。
「捕らえられている」と訳されたギリシャ語は、得る、つかむ、手に入れるなど
と訳すこともできます。捕まえると訳すこともできるでしょう。わかりやすいよ
うに、このメッセージでは「得る」という言葉を使うことにしましょう。パウロ
はそれを得ようと追い求めていましたが、それは彼が、キリスト・イエスによっ
て捕らえられていたからでした。パウロは回心した時に、キリストによって得ら
れました。キリストは、パウロがキリストを得ようとすることを意図してパウロ
を得たのでした。
パウロが語ったように自分の回心について語るクリスチャンは多くありません。
回心した時に、キリストはわたしを得た、それはわたしがキリストを得るためで
あった、とだれかが言うのを聞いたことがありますか? わたしたちは、キリス
トがわたしたちを得たのは、わたしたちがキリストを得るためであることを、認
識する必要があります。それから、わたしたちはパウロの表現を用いて、自分の
回心についての話し方を引き上げる必要があります。キリストがわたしたちを得
たのは、単に罪の赦し、贖い、救い、天のためではありません。繰り返しますが、
彼がわたしたちを得たのは、わたしたちが彼を得るというはっきりした目的のた
めです。
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新約聖書の節は、回復訳新約聖書(1996年版)から引用されており、務めの言葉は、
ウイットネス・リー著「ライフスタディ・ピリピ人への手紙(三)」(1981年版)メ
ッセージ23から引用されています。いずれも日本福音書房から出版されています。
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